個人日誌2021/01/13

『瞬間と持続*1』には、バシュラールの1932年の著書『L'intuition de L'instant.』(瞬間の直観)と、1939の論文『Instant poétique et instant métaphysique.』(詩的瞬間と形而上学的瞬間)が収録されている。

この「詩的瞬間と形而上学的瞬間」が、ぼくの抱いている詩の感覚を説明づけていて、かなり良かった。

ポエジーとは瞬間化された形而上学である。それは、短いひとつの詩の中に、全宇宙の展望と、ひとつの魂の秘密、ひとつの存在の秘密、そしてさまざまの対象の秘密をすべて同時にあたえるはずである。(中略)したがってポエジーとは、いってみれば本質的同時性の原理であって、そこでは、最も拡散し、最も分離した存在も、みずからの統一をかちとるのである。

これはその冒頭だが、論文全体の要約ともなっている。

ポエジーは、普通一般の「水平的時間」、つまり流れ去ってしまう時間ではなく、一瞬にすべてを凝縮した「垂直的時間」の中にある。この凝縮をボードレールは「交感(Correspondances)」と名付けたが、それについてバシュラールは「それはただひとつの瞬間の中での感覚的存在の総和である」と書いている。的確な表現だと思う。

詩にとって矛盾はあり得ない。最も結びつき難いものをひとつにするのがポエジーであって、なぜそうなるのかといえば、そもそも人間の生がそうであるからだ。論理的に解釈すれば、矛盾のない人間はいない。「なぜそうしたんですか」「それはなぜですか」と無限に質問を繰り返されたら、最終的にはそいつを殴って黙らせるなり悪態をついて立ち去るなりするしかなくなる。すべてが一貫した人物を見たことがあるだろうか。仮にそういう人物がいたとして、それはもはや生きているとは言えないと思う。少なくともぼくにはそうやって生きている人間を想像できない。

論理を通してではなく実際に生きているわれわれの目で見れば、矛盾だらけの生のあり様はごくありふれた自然な光景に映るはずだ。嬉しいことが悲しくもあるような感情もあるし、悲しいのに笑う時もある。死にたいと言いつつ生きている人なんかはいくらでもいる。「人間が描かれている」作品は往々にして、こういう矛盾した感情をうまく描けているからこそ、そういう評価になる。詩もひとつの生の表現である以上、矛盾はそもそも矛盾ではない。矛盾、それ自体が生だからだ。