涙液の記憶としてのノスタルジー 〜さめほし個展「OneScene」に寄せて

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彼女は何を見ているんだろう?
これが昨日ぼくが新宿眼科画廊に足を踏み入れて真っ先に抱いた疑問だった。

昨日(2018/10/26)からさめほしさんの個展が始まっている*1。新宿眼科画廊のMスペースに展示されていて、中の様子は外からでも見える。入り口がガラスで透明になっているからだ。入り口の正面に飾られている作品が今回のDMにもなっている「OneScene」だ(冒頭の画像)。描かれている少女は、明らかになにかを見つめている。そのなにかは、オレンジ色のなにかであって、どうやら発光しているようだということしかわからない*2。家に帰るまでずっとその目に映っているものはなんなのだろうということが頭にひっかかっていたのだけど、それは具体的な何かというよりもこの少女だけが知っている OneScene / ひとつの光景 なのだろうと結論付けることしかできなかった。それでもひとつわかったことがある。この少女が見ているのはぼくだけが知っている光景でもあるということだ。

それは「OneScene」という作品だけでなく、さめほし作品に固有の構造によって理解される。

さめほしさんの作品にはすぐわかる特徴がある。作品に登場する少女が多かれ少なかれ滲んで輪郭や空間が崩れているのだ。彼女たちはなにに滲んで崩れているのだろうか。空間が崩れている以上、そこに描かれている光景は客観的な風景ではないだろう。そして主観的な視界を滲ませるのは涙以外にあり得ない。今回の展示を見て思ったのは、どの作品からもノスタルジーが感じられるということだ。勿論どの作品も鑑賞者の記憶を描いたものではない。懐かしさを喚起するモチーフが描かれているわけでもない。ではどこからそういう印象が起こるのかといえば、涙を通して見られるという構造に起因しているのだ。個人的な経験の内には無い記憶をこそ感光させる水分の多いさめほし作品の絵の作用が、老若男女変わらない根源的なノスタルジーに触れている。そう考えざるを得ない。

つまり、さめほしさんの絵は光として飛び込んでくる涙液の記憶なのだ。

OneScene。
少女は少女の涙液の記憶を見ていた。ぼくはぼくの涙液の記憶を見ていた。

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*2:髪の毛に点々と反射されている様子からそれはわかる。

めちゃくちゃ久しぶりにガガガSPの卒業を聴いて

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*1

夢をありがとうって歌詞が最後にあるんだけど、そこまで聴いてこれすげえなって思った。男は、特に恋愛経験の浅い男は完全にこれ。ただ普通に生きてるクラスメートをやたら担ぎ上げてとんでもない夢を見ちゃうってやつ。そのクラスメートだって客観的に見れば何一つ突出した所のないどこにでもいる普通の女子生徒であって、クラスのイケメンが好きだったりするわけだし、なんならさっき「そこどいて」って言われた声といまイケメンと話し始めた声が露骨にオクターブ違ったりするわけ。それでいて女子生徒を担ぎ上げるさえない男子生徒だってそれらの諸々に気づいてはいるわけ。だけどすごいのはここからで、その諸々を踏み越えて「俺にはこの子しかいないんだ」って根拠もなく思い込む視野の狭さとそれを補強し続ける無尽蔵なエネルギーが彼にはある。これがすごい。

こないだキャバやってる子と会うという話になって、キャバクラに行ったことがないぼくからしたら勝手なイメージで派手な女が来るのかなとかもしかしてギャルみたいな感じじゃないかとか都合よく考えて会いにいくわけだけど、出て来たのが平成の怪物で思わず「よくここまで育てましたね」って言ってそのまま帰りました。思わず丁寧語になっちゃうくらいのインパクトがあったわけだけど、この怪物も昔はクラスメートの女子だったわけじゃんか。学校という特殊空間と思春期とでぐちゃぐちゃになった情念がなくなれば結局はどれも制服を着たタンパク質だろ? いや、平成の怪物と形容していいようなキャバ嬢はいないよ。いないいない。ぼくは誰とも会わなかった。

とはいえ「イケメンが好きなんだろう」とか「こっちのことは目にも入っていないんだろう」とかいう程度にはしっかり状況を把握しているわけなんだけど、その上で反対側のシーソーに乗った客観性がどっかに飛んでっちゃうくらい主観が強いわけ。なにがよかったかってこれなんだよな。ぼくはこの圧倒的な主観性がほしい。なにやったって結果は惨敗だよ。でもこれが生きてるってことだと思う。

子宮から龍宮城を釣り上げるまでは死ねない老人性のリビドーで使い物にならなくなった悲しき玩具を目の当たりにして自分が玉手箱を開けていたことに気づいてからでは遅いんだよ。いやほんとに。この意味がわかるか? おまえらにこの意味がわかるか???

動物と比べられた時の人間と機械と比べられた時の人間との間で見失われた本物の人間がどう生きるかということをきみたちも一度よく考えた方がいい。これは忠告です。ぼくだけの話ではない。

全然関係ないけど、これだけは平成のうちに言っておきたい。松坂選手、夢をありがとう。*2

 

*普段とだいぶ違う印象を受けると思いますがイメチェンしたわけではなくて単に取り乱しているだけです。人間性を疑わないでください。取り乱しているだけです。ここ最近ずっと取り乱しています。

*1:ぼくが高校生だった時に流行っていた青春パンクというジャンルの中でもわりと売れていた有名な曲です。このPVは後ででたベストアルバムの時に改めて作ったもののようです。当時のPVの方がよかったのだけど、YouTubeにはこっちしかなかったのでしかたなくこっちを貼っています。こっちの動画だと歌詞も歌メロも変わってるけど、ぜんぶオリジナルの方がよかった。

*2:松坂選手:甲子園の決勝で59年ぶり史上2人目となるノーヒットノーランを達成するなど圧倒的な活躍でチームを春夏連覇に導いた、いまさら説明するまでもない本物の平成の怪物

かさほた5

傘と包帯第5集*1を公開しました。

今回はこれまでよりも読まれてるようだ。さめほしさんの絵がかわいい。この絵はデータだけじゃなくて実物の作品を購入したので、物体としていま目の前にある。iMacの前からこちらを見上げている。

寄稿してもらった岩倉さんの作品が note のおすすめに載っていた。なにかのアルゴリズムで自動的に選んでいるのかと思ったけど、ここを見る限りそうでもなさそうだ。たぶん運営の人が岩倉さんのツイートを見たんだろう。

変わっていく

これはなにもいつまでに自殺しますとか医者に余命を宣告されていますとかそういう具体的な話じゃないんだけど、ここ最近もうじき死ぬんだよなあという感じが強くなってきている。根拠はひとつもない。だからより強く感じられるのかもしれない。最近はずっと泣きそうな気持ちでいる。死ぬのが嫌だとかいう感じではなくて、どっちかっていうと卒業式的な感情に近い。あいにく卒業式で泣くような人間ではなかったけれど、ああこの景色も最後だなあって、ぜんぶ有限なんだなあってことをすげえ実感しちゃうわけで、それはぼくみたいなやつでもなにかしら揺さぶられるものがある。なにかのきっかけで「だってもう死ぬんだぞ!」って取り乱して泣きだすんじゃないかってくらいに実感として終わりが近くにある。ぼくがすぐに死なないにしてもいま見えているものはさっきとまったく同じ状態ではなくなっている。街も人もどんどん変わっていく。変わっていってるんだよ。

夏の骨格 万引き家族編

2018/08/04

万引き家族」を見てきた。(ネタバレがどうとか面倒なので以下すべて文字を反転させています。)

血の繋がりのない家族の日常とその帰結、大枠はそんなような話だった。虐待されている子供を近所で拾ってくるのもそれが家族として受け入れられているのもよかった。大正時代のアナキストである大杉栄が子供をあやしながら洗濯物を干していたとか近所の人たちからはすごく慕われていたいうエピソードを想起した。世間的には悪事を平気でやる危険人物として見られるけれど、本人はべつに悪いことなんかしてなくてただ自然に生きてるだけというところで共通しているように思ったんだろう。実際、寒い夜に連日外に放置されている子供を見かけて可哀想に思うのも、連れてきた子供がかわいいのも人間の自然な感情でそれ自体に何ら責めるべき点はない。それなのにその自然な感情をそのまま行動に移すと大悪党みたいなことにされてしまう。なぜならそれが社会通念上許してはいけないとされているルールに反しているからだ。ただそれだけが問題とされているというのは、誘拐された側の両親が二ヶ月もの間なにもせず捜索届けすら出していないことからもわかる。居なくなって困っているどころかこのまま見つかってほしくないという気持ちが表現されている。つまり当事者間では何も問題にはなっていないということを強調している。

「家族」である彼らはなにかを敵視しているわけではないがゆえにアナキストのいう相互扶助よりもリアルで良心的な人間の暮らしを営んでいた。粗雑な人間ばかりだったけどその分正直に生きている感じがした。この「家族」の在り方をこの粒度で描写できているというのがこの作品の核だと思う。この距離感の共同体が自然にできるなら血縁関係のない自由家族みたいなものがもっと自然にあってもいいと思う。

はじめに枠があってそこに友達100人の思想ではめ込まれるから全然合わないようなやつとまで無理に付き合っていかなくちゃいけなくなる。だから建前が必要になってくるし、自分は何とも思ってなくても建前上どちらかに加担する必要だって出てくるし、そういうのが苦手なやつは心を病むし、それ以前にそこに居たくもないのに強いて居なくちゃいけないとする時点で嘘なんだ。正直じゃないんだ。そりゃ歪むだろ。その点、彼らは歪んでなかった。いい歳のおっさんがなんのためらいもなく子供と本気で雪だるまを作り始めるくらい自然な人間であった。だいたい子供に教えられることが万引きしかなかったってなんだよ、悲しすぎるだろ。そうしないと生きていけなかったってことだろ。そんなの絶対に彼のせいにはできないはずだ。学校にも行かなかったようだし、能力がないというよりも機会がなかったんだろうと想像するのは難しくない。それでも終盤で保護される子供達に向けられる世間的な優しさは彼には向けられない。彼だって被害者だったのに、運が悪かったばっかりに、子供の時に発見されなかったばっかりに犯罪者扱いだ。ひどい話だ。彼がやったことに悪意は感じられなかったというのに。

最後には社会から派遣されてきた無関係の部外者に潰されてしまうというわかりきった結末が待っているのだけど、そこで無駄な抵抗をしなかったのもよかった。どうせはじめから期限付きだってことを受け入れている彼らの在り様には共感しかなかった。

夏の骨格 会話編

2018/08/02

「そういうことを言ってほしいんじゃない」と同居人に怒られてしまった。詳しい内容は省くけれど、言われた通りにしないといけないと思ってつらくなるのだそうだ。そういうつもりで言ってるんじゃないからそんな風に思わないでくれと言ってもどうにもできないらしい。いままでにも何回か同じことを言われているがそのたびにおまえが犠牲になれと言われているように聞こえてしまう。

衝突地点は分かっている。向こうは決まっていることがその通りに進んでいかないと不安になるし、ぼくは変えることができないというだけで憂鬱になるのだ。せめてこちらに気づかせるような言い方をしてくれたらとも思うがそれも無理だというし実際そうなんだろう。ぼくがひとりでこの状況をなんとかしようとするとずっと気をつけていないといけない。はじめから対応を定められている会話をどうしたら間違えずに答えられるだろうか。どうしたら報酬も終わりもないなかで逃げ出さずにいられるだろうか。そもそもこれは会話だろうか。ぼくにはできそうにない。

でも本当の望みを言えば、ぼくの中にあるはずの支えてあげたいという気持ちが純粋になることなのだ。何のわだかまりもなくなるように不純物が取り除かれることなのだ。だめになるなら早い方がいいとは思うがいまのところそこまでの決意もない。自然乾燥に任せるつもりでいる。

夏の骨格 末節骨編

2018/08/01

今日は体育館でバスケができる日だ。こないだ発見して目をつけておいたのがやっと当日を迎えたというわけだ。わくわくして中に入ると懐かしい光景があった。意外にもバスケ部に所属していたことがあり、一年生のなかで唯一、三年生が引退するときに一緒に引退するくらいまじめにやっていた(試合に出ていたとかそういうわけではない)。コートには5人くらいしかいなかった。それぞれ好き勝手にシュートを打っていてぼくもそれに混ざる。ああこういうのがしたかったと思ううちにだんだん人が増えてくる。そしてなにやら一列に並び始めたなと遠巻きに眺めていたらぼくも並ばせられてしまった。ほとんどの人が常連なのだろう特になにも言わずともチーム分けが始まっていた。というかもうほとんど分けられたあたりでそのことに気づいた。「ちょっと待ってそんなつもりで来たんじゃないのよ」と言うタイミングを完全に逸した哀れな子羊であった。羊飼いの号令に従って試合は始まった。コートでは徘徊するおじいちゃんとしての活躍をしていてだれからも平等に無視をされている。体力がなさすぎる。開始1分で足が動かなくなった。まさかこんなに使い物にならないとは思わなかった。通常の試合の1クオーター分にも満たない時間だったのに終わる頃には目がチカチカして周りが暗くなってきた。そんな状態にも関わらずすぐ次の試合をやるというので無理〜と思って外に出た。休憩。しばらく休憩して戻ったらちょうどチーム替えをしていた。なんとまあ、またしてもそこに含まれてしまった。それで新チームで試合をした。さっきよりも人数が増えていたので試合ごとの間隔が空いていたのがよかったのか自分の体力のなさに自覚的になったのがよかったのかさっきよりは楽だった。周りの参加者も特別うまいようには見えないのにこんなことになっているのは完全に体力が無いからだ。イメージした通りに動けないのがいまになってすこし悔しい。あしたは筋肉痛だろうな。

原稿はなにも進んでいない。せめて今週中にはアウトラインは決めるつもりでいる。あしたは他に予定を入れていないのでその辺のことをなるべく進めたい。