変わっていく

これはなにもいつまでに自殺しますとか医者に余命を宣告されていますとかそういう具体的な話じゃないんだけど、ここ最近もうじき死ぬんだよなあという感じが強くなってきている。根拠はひとつもない。だからより強く感じられるのかもしれない。最近はずっと泣きそうな気持ちでいる。死ぬのが嫌だとかいう感じではなくて、どっちかっていうと卒業式的な感情に近い。あいにく卒業式で泣くような人間ではなかったけれど、ああこの景色も最後だなあって、ぜんぶ有限なんだなあってことをすげえ実感しちゃうわけで、それはぼくみたいなやつでもなにかしら揺さぶられるものがある。なにかのきっかけで「だってもう死ぬんだぞ!」って取り乱して泣きだすんじゃないかってくらいに実感として終わりが近くにある。ぼくがすぐに死なないにしてもいま見えているものはさっきとまったく同じ状態ではなくなっている。街も人もどんどん変わっていく。変わっていってるんだよ。

夏の骨格 万引き家族編

2018/08/04

万引き家族」を見てきた。(ネタバレがどうとか面倒なので以下すべて文字を反転させています。)

血の繋がりのない家族の日常とその帰結、大枠はそんなような話だった。虐待されている子供を近所で拾ってくるのもそれが家族として受け入れられているのもよかった。大正時代のアナキストである大杉栄が子供をあやしながら洗濯物を干していたとか近所の人たちからはすごく慕われていたいうエピソードを想起した。世間的には悪事を平気でやる危険人物として見られるけれど、本人はべつに悪いことなんかしてなくてただ自然に生きてるだけというところで共通しているように思ったんだろう。実際、寒い夜に連日外に放置されている子供を見かけて可哀想に思うのも、連れてきた子供がかわいいのも人間の自然な感情でそれ自体に何ら責めるべき点はない。それなのにその自然な感情をそのまま行動に移すと大悪党みたいなことにされてしまう。なぜならそれが社会通念上許してはいけないとされているルールに反しているからだ。ただそれだけが問題とされているというのは、誘拐された側の両親が二ヶ月もの間なにもせず捜索届けすら出していないことからもわかる。居なくなって困っているどころかこのまま見つかってほしくないという気持ちが表現されている。つまり当事者間では何も問題にはなっていないということを強調している。

「家族」である彼らはなにかを敵視しているわけではないがゆえにアナキストのいう相互扶助よりもリアルで良心的な人間の暮らしを営んでいた。粗雑な人間ばかりだったけどその分正直に生きている感じがした。この「家族」の在り方をこの粒度で描写できているというのがこの作品の核だと思う。この距離感の共同体が自然にできるなら血縁関係のない自由家族みたいなものがもっと自然にあってもいいと思う。

はじめに枠があってそこに友達100人の思想ではめ込まれるから全然合わないようなやつとまで無理に付き合っていかなくちゃいけなくなる。だから建前が必要になってくるし、自分は何とも思ってなくても建前上どちらかに加担する必要だって出てくるし、そういうのが苦手なやつは心を病むし、それ以前にそこに居たくもないのに強いて居なくちゃいけないとする時点で嘘なんだ。正直じゃないんだ。そりゃ歪むだろ。その点、彼らは歪んでなかった。いい歳のおっさんがなんのためらいもなく子供と本気で雪だるまを作り始めるくらい自然な人間であった。だいたい子供に教えられることが万引きしかなかったってなんだよ、悲しすぎるだろ。そうしないと生きていけなかったってことだろ。そんなの絶対に彼のせいにはできないはずだ。学校にも行かなかったようだし、能力がないというよりも機会がなかったんだろうと想像するのは難しくない。それでも終盤で保護される子供達に向けられる世間的な優しさは彼には向けられない。彼だって被害者だったのに、運が悪かったばっかりに、子供の時に発見されなかったばっかりに犯罪者扱いだ。ひどい話だ。彼がやったことに悪意は感じられなかったというのに。

最後には社会から派遣されてきた無関係の部外者に潰されてしまうというわかりきった結末が待っているのだけど、そこで無駄な抵抗をしなかったのもよかった。どうせはじめから期限付きだってことを受け入れている彼らの在り様には共感しかなかった。

夏の骨格 会話編

2018/08/02

「そういうことを言ってほしいんじゃない」と同居人に怒られてしまった。詳しい内容は省くけれど、言われた通りにしないといけないと思ってつらくなるのだそうだ。そういうつもりで言ってるんじゃないからそんな風に思わないでくれと言ってもどうにもできないらしい。いままでにも何回か同じことを言われているがそのたびにおまえが犠牲になれと言われているように聞こえてしまう。

衝突地点は分かっている。向こうは決まっていることがその通りに進んでいかないと不安になるし、ぼくは変えることができないというだけで憂鬱になるのだ。せめてこちらに気づかせるような言い方をしてくれたらとも思うがそれも無理だというし実際そうなんだろう。ぼくがひとりでこの状況をなんとかしようとするとずっと気をつけていないといけない。はじめから対応を定められている会話をどうしたら間違えずに答えられるだろうか。どうしたら報酬も終わりもないなかで逃げ出さずにいられるだろうか。そもそもこれは会話だろうか。ぼくにはできそうにない。

でも本当の望みを言えば、ぼくの中にあるはずの支えてあげたいという気持ちが純粋になることなのだ。何のわだかまりもなくなるように不純物が取り除かれることなのだ。だめになるなら早い方がいいとは思うがいまのところそこまでの決意もない。自然乾燥に任せるつもりでいる。

夏の骨格 末節骨編

2018/08/01

今日は体育館でバスケができる日だ。こないだ発見して目をつけておいたのがやっと当日を迎えたというわけだ。わくわくして中に入ると懐かしい光景があった。意外にもバスケ部に所属していたことがあり、一年生のなかで唯一、三年生が引退するときに一緒に引退するくらいまじめにやっていた(試合に出ていたとかそういうわけではない)。コートには5人くらいしかいなかった。それぞれ好き勝手にシュートを打っていてぼくもそれに混ざる。ああこういうのがしたかったと思ううちにだんだん人が増えてくる。そしてなにやら一列に並び始めたなと遠巻きに眺めていたらぼくも並ばせられてしまった。ほとんどの人が常連なのだろう特になにも言わずともチーム分けが始まっていた。というかもうほとんど分けられたあたりでそのことに気づいた。「ちょっと待ってそんなつもりで来たんじゃないのよ」と言うタイミングを完全に逸した哀れな子羊であった。羊飼いの号令に従って試合は始まった。コートでは徘徊するおじいちゃんとしての活躍をしていてだれからも平等に無視をされている。体力がなさすぎる。開始1分で足が動かなくなった。まさかこんなに使い物にならないとは思わなかった。通常の試合の1クオーター分にも満たない時間だったのに終わる頃には目がチカチカして周りが暗くなってきた。そんな状態にも関わらずすぐ次の試合をやるというので無理〜と思って外に出た。休憩。しばらく休憩して戻ったらちょうどチーム替えをしていた。なんとまあ、またしてもそこに含まれてしまった。それで新チームで試合をした。さっきよりも人数が増えていたので試合ごとの間隔が空いていたのがよかったのか自分の体力のなさに自覚的になったのがよかったのかさっきよりは楽だった。周りの参加者も特別うまいようには見えないのにこんなことになっているのは完全に体力が無いからだ。イメージした通りに動けないのがいまになってすこし悔しい。あしたは筋肉痛だろうな。

原稿はなにも進んでいない。せめて今週中にはアウトラインは決めるつもりでいる。あしたは他に予定を入れていないのでその辺のことをなるべく進めたい。

夏の骨格 口蓋骨編

2018/07/31

家に帰ると本が届いていた。現代詩手帖ユリイカ詩と思想の最新号だ。ユリイカの「今月の作品欄」にnoteでフォローしているResuさんの作品が掲載されていた。なんでぼくの詩は掲載されないのだろうと考えたところ原稿を送っていないからだということがわかった。宝くじも買わなきゃ当たらないが買えば買うほど売る側がたくさん当たる仕組みになっているのである。買ってると思っていたらいつのまにか売ってる側だったという詩的イリュージョンを身につけて、小説の方が落ち着いたら応募してみようと思っている。

渋谷で待ち合わせをしていたので一度帰っては来たがそれから少ししてまた外に出た。渋谷に着いて人の多さにうんざりしながら自動販売機で何気なく買ったミニッツメイド クラフツ ミントレモネードを飲むと目の覚めるようなおいしさだった。合流してからすこし歩いて野菜に自信がありそうなお店に入る。入ったはいいが料理について語りたがる店主の話を自分の中でなにひとつ濾過できなかった。食べられることがありがたいのでそれ以上のことは念仏みたいなものだ。成仏してえなあ。同席していた相手がアイスを食べたいというので店を出た後にマークシティに寄ってアイスを食べた。ただそれだけしかしていないのに帰る頃には体力が底をついていた。なんでだろうと考えたがおそらく睡眠不足のせいだろうと思う。昨日と一昨日とどちらも五時間も寝てない気がする。朝は眠いし日中も眠い。なにやってんだろうな。

さめほしさんが参加しているグループ展にあとで行こうと思っていたら明日が最終日だった。「海に行こうよ」というグループ展をやっていることは前から知っていたのだがまさかこんなに早く終わるとは思っていなかった。明日が最終日ということで17時には閉めるようだ。だいたいこういう展示のイベントは搬出の都合上、最終日には早めに切り上げられてしまう。17時には行けそうにない。さめほしさんの絵はTwitterで見かけるたびによいなあよいなあとしか言えなくなる程度の言語中枢への集中的な麻痺が起こるほどの良さがあったわけだが、今年の春(4/13-18)にやっていた個展「崩壊と形成」を見て、自我の溶解とその境界におけるギリギリの成就されなさに前頭前野を射抜かれてしまった。こんな詩的な絵はそうそうない。グループ展に行けないことの実感がだんだん強く感じられてきた。あと一日でも早く気づけていたらと思うと残念でならない。

原稿はなにも進んでいない。

夏の骨格 大腿骨編

2018/07/30

投稿用の小説について具体的に考え始めた。とりあえずなんのアイデアもないながら期限は二ヶ月しかないのでざっくり計算して一ヶ月毎日一万字書いて残りの一ヶ月で推敲すればいいだろという安易な計画で、わざわざ電車に乗って良さげなコワーキングスペースに行き、愛想のない店員にうろたえてから借りてきた猫のように入店したわけだが、ここで費やした二時間がもたらしたものは計画を練り直せという当然といえば当然のような結論だけだった。もちろん一文字も進んでいない。これはまずいと思ったが、そこで飲んだピーチピンクフルーツフラペチーノがうまかったこととは相殺できないので、もう少しちゃんとやらないといけない。ちゃんとやらないといけないと思っていても何も進まないというのはわかりきった話で、具体的な行動にして進めていかないといけない。そう思ってコワーキングスペースを出るとなぜか足がシーシャ屋に向かった。店内は凄惨な様相をしていて、入り口では人間の臓物めいたなにかに手を突っ込んだ店員が朗らかな笑みをこぼしていたのだが、これはマフィアの下請けが裏切り者の肉塊を処理していたわけではもちろんなく、シーシャに使うフレーバーのシロップがだだ漏れしていただけだった。大変だよねと思いつつぼくはその脇で、これが事態を好転させる唯一の方法であるかのような真剣な面持ちで煙を吸っていた。リラックスしている時の方がアイデアが出やすいというのはよく聞く話で、例に漏れずいくつかのアイデアが浮かんで来たので少しは前に進んだ気がしている。

ここ二三日文章を公開しているが、過去に向かって書かれたようなこんな文章を公開してどうなるのかと考えないこともない。とはいえ飽きるまではやるだろう。飽きたらやめる。なんにせよこういうことを書いた直後が一番やらなくなってしまいがちだということはわかっているがそういうかっこ悪さも含めてなるべく正直でありたい。

2018/07/29の続き

2009年放送版ハルヒの残りと、消失(映画)をみた。消失は当時映画館でみてめちゃくちゃおもしろいなと思って普段は絶対買わないDVDまで買ってしまったくらい好きな作品なので改めて観てもやっぱりおもしろい。ある日目が覚めたらハルヒのいない世界になっていて、そこからなんとかして元の世界に戻ろうとするキョンの執念が最高なのである。実際に目の前に繰り広げられているさして不都合もないような世界、なんならそのまま居座った方が快適に暮らせそうな世界よりも、周りの人物や状況すべてに否定されつつも世界中のだれも知らない本当の世界に戻ろうとする意思がたいへん美しい。おかげでモニターに「YUKI.N>」と映るだけで涙が込み上げてくる体にされてしまった。こういう信念の話はよい。自分以外のすべてが変わり果ててしまって、それでも自分の意思を曲げないでいるのはどれだけ難しいことだろう。そしてどれだけ美しいことだろう。べつにこれはアニメに限ったことでもない。この馴染み深い現実世界の中で日々を過ごしている人々にだってそれぞれ「こうありたい」だとか「こうであったらいいのに」というようなイメージがあったりするんじゃないのか。それはキョンが戻りたいと願った「あるべき世界」と本質的に同じなんじゃないのか。それを固持することは誰にとっても難しいだろうけれど、使い捨てであるべき客観的固定的現実社会を、理不尽な目に遭いながら抱いてきた各人各様の「あるべき世界」よりもありがたがる必要なんかないだろ。そんなことを思った。

夏の骨格 肩甲骨編

2018/07/29

頭痛にやられて何もできないでいる内に日が変わってしまった。同居人に「きみは頭痛持ちだもんね」と慰めの言葉を掛けて頂いたのだが、ぼくは金持ちとの格差に愕然としてしまった。どちらも生得的な性質であって選択権は与えられていなかった。これはものの例えだが、池から女神が現れて「あなたが落としたのは頭痛ですかお金ですか」などと訊いてくるような体験もぼくにはなかった。自助努力で財を成した人間がいるだろとお叱りの声が聞こえてきそうだが、ぼくが金持ちと言われて想像するのは、生まれ育った環境がすでに十分以上に整っていて金のために自分が何かをするという発想を持ち合わせていないような人種のことなのだ。総資産額で人間を測るような器用な真似はぼくにはできない。自分で財を成したと言われるとどうしても紙幣に火をつけて「どうだ明るいだろう」と言うような人間像しか描けないのだ。一代で財を成した人物をディスっているわけではない。そういう人物が周囲にいた試しがなく、テレビやネットで見かける有名人でしかないため、教科書でみた成金の絵以上のリアリティを感じられないということなのだ。あの絵にリアリティがあるというわけではないが、具体的に金持ちというイメージを持ち合わせていなかった当時のぼくにとってひとつの人間類型を植え付ける程度にキャッチーなイメージではあった。今後ぼくに金を垂れ流してくれるような実業家の人でも現れるならばその時にイメージを刷新するくらいの準備はあるのでいまのところは見逃しておいてほしい。ちなみに池から女神が現れても正直に答える勇気はない。

日中は友人と遊んだ。カレーを食べて本屋をうろついてダーツをした。本屋では栗原康『何ものにも縛られないための政治学』とアラン・セルジャン『アナーキストの大泥棒』を購入した。5400円。前者は以前読んだ伊藤野枝の伝記が最高に面白かったため、後者は帯の「稀代の大泥棒にしてフランス最後のアナーキストのモノグラフ」という煽り文を見てぼくの変人好きが刺激されたため、購入するに至った。眠いので今日はこれで終わり。