個人日誌2022/04/20

ここ最近は精神医学事典*1をちびちび読んでいる。書名では事典となっているが、エッセイ集と言った方が近い。今日は [結界] の項を読んだ。著者が、40過ぎの引きこもり男性の家を訪問した時の話だ。

その家ではコンロではガスの火が小さく燃えていて、あらゆる蛇口からは細く水が流れ続けていて、それが男性にとっての結界の役目を果たしていたらしい。彼は統合失調症で自分の家が何者かに狙われているという妄想を抱いているために、自分の聖域をそのような形で守っていたということだが、外から見ただけではそれが本人にとって結界の役目を果たしているようだということはわかっても、どうしてその形が結界として機能するのかはわからない。ぼくには目に見える聖域よりも、彼にしかわかりえないその象徴世界に興味がある。その世界に通ずる道があるなら実際に目にしたいと思っている。そういった世界の存在を仮定しなければ、この世のあらゆる具体的な事物に興味が持てそうにない。

個人日誌2022/04/19

まだ何の分別もない子供が積み木を組み合わせるような無邪気な戯れとして語と語を癒着させていく遊びをそろそろ再開しようかと思ってクリスタルメメントを読み返した。思ったよりもたくさんつくってあった。それに思ったよりもちゃんと自分の目に嬉しいものになっていた。2016年が一番活発だったようだ。思いのほか長い時間が経ってしまった。いろいろと寄り道をしてしまったけど、また何かしら書いていきたい。

個人日誌2022/01/01

銭湯で湯に浸かっていると上方の窓から刺す光が湯煙と弱視とによって神秘的な色を帯びて、いまここにこうしていることが思い出の中なのだという感じがした。

関わっている時間が長ければ長いほど重みが増してくるのはどんなことでも同じで、現実が重くなるのは単に起きている時間が長いせいだというのがまず第一にある。その重力に抵抗するように生きていると、ふっと意識だけが時間的に遠ざかって、身の回りにある人や物などの具体的なオブジェたちがまるでぼくとの関係性が完璧に消え去って感じることがある。そういうときに、ああここはフィクションの世界だったんだとか夢の中だったんだとか思い出の中なのだとかそういうことが考えるよりも先に頭に浮かんでくる。最近まともに本が読めなくなっているのも、反世界への道程を半ば以上進んできてしまったからだという感じがする。

今年はよくねむって夢の世界への理解を高めようと思っている。夢に関する本を読むよりも直接的で楽しいだろう。あとはなるべく素朴に偶然的に生きたい。

個人日誌2021/08/22

自分を軽くしよう、という意識がある。

ただ生きているだけで、積み上げることを是とする空気を感じるが(技術、実績、貯金など?いろいろ)、その空気にあえて抵抗しようという意識はない。ただ、積み上がりそうな気配を感じると、バランスが悪いよねくらいの素朴な感覚で、わざとだめにしたくなってくる。

何も積み上がっていなければ崩れるものはない。

地面に、ではない。積み上がっているのは、自分の肩に、頭に、意識の上に、だ。積み上がるにしたがって、シルエットが大きくなる。このシルエットに自分も他人も騙されうる。実態に即していない。だから身体も考え方も不自由になる。シルエットは等身大にしておきたい。

自分の力で軽くすることはできない、とヴェイユは言っていた気がする。そこにヴェイユは神を見ていたように思うが、ぼくは神を知らないので、偶然性を見る。偶然性に賭けておく。

賭けられるものすべてを賭けるような意識でいると、それだけで軽くなれるような気がする。

個人日誌2021/02/12

個人的な関心に立ち返るたび、余計なことばかりしてきたように感じる。関心外のことに気を取られないようにすることが意外に難しい。本当ならすべてを擲ってでも選ぶべき道があったんだけど、そうすべきタイミングでうまく身を委ねることができなかった。あまりにも認識が甘く、あまりにも臆病だった。それがなかったらすべての存在が空洞になってしまうはずのものを見送ってしまった。それに関してはもはや手遅れだ。

それが手遅れだと気づいた頃に文学と出会った。いま考えるとうまくできてんなという感じだが、実質的に「世界をとるか自分をとるか」であるような選択は、実はいまもあって、というかずっとあったんだけど見逃し続けていて、ずっと見逃し続けているとまたある時期に手遅れだということに気がつくことになる。「世界をとるか自分をとるか選びなさい」ってはっきり出てきたらたぶんそんなに難しくないはずだ。自分がいない世界はどう考えても無なのだから、答えは分かりきっている。でも試験みたいに明確に問題が提示されることもないし、はっきりと制限時間が表示されることもない。なんとなく後回しにして、気づいたら終わってる。だいたいぜんぶそういう感じなんだろう。

すべてを手遅れにしていくっていうのもべつにありだと思うし、何をやってもやらなくても最後にはきれいに終わるわけなので、結果だけみたらそう深刻になることでもないんだけど、それでも社会に血を吸われたゾンビでありたいとはさすがに思わないから、なるべく関心の抜け道だけを通るようにしたい。

個人日誌2021/02/11

詩人はおそらく人生の外を生きていることに自覚的な人種のことなのだろうと思う。ぼくが詩人というときの詩人はなにかしら象徴主義的な気質を持っている気がする。

生まれてから死ぬまでを一般的に人生というが、詩人の魂はそれ以前の「永遠」としか形容できないすべてに通底したスペースに生きている。「それ以前」とは時制的な意味ではなく、その土台とか素材とか原料のようなニュアンスであり、そこでは「生まれる前」や「死んだ後」などという時間的な区分は存在しない。目の当たりにしている有限世界の合理性に縮こまっていることがむしろ不合理に感じられるような性質を持ち、その直観的に不合理である合理性に本能的に我慢ならないのが詩人であり、それらが象徴であるという解釈において彼らはやっと自分に立ち帰れると感じた。彼らの詩は魂の強力なノスタルジーの牽引力によって生み出されている。

有限の世界から見れば、詩はなにかしら蠱惑的な世界の存在を示唆しており、それを感受可能な人からすれば、狭い合理性とは無関係な魅力、その魅力自体が根拠となる魅力を放ち続ける。