かさほた4

傘と包帯 第四集 *1を公開しました。

ブログには書いていなかったけど、昨年の4月から「傘と包帯」というウェブ詩誌をやっています。だいたい季節ごとにやれればいいかなと思っていましたが、昨年は4月、8月、12月と公開できました。4ヶ月ペースです。今年もそれくらいのペースでやれればいいかなと思っています。

テーマは設けていません。個性を出してくださいとだけ伝えて書いてもらっています。嬉しいことに、希望通りそれぞれの個性が感じられる作品ばかり集まっています。

知ってるよという方も、いま知ったという方も、読んでもらえると嬉しい。反応があるともっと嬉しい。

Twitterでなにか書かれる場合は「#かさほた」というハッシュタグをつけてもらえるとこちらから見つけやすいです。

散花集の花序

散花集が100個できました。

記念に散花集の正体をすこし書いておきます。

花は咲いたままではいられません。人間はやがて死を迎えます。存在はそれまでの一時的なものです。確かにそこにいると思える人物もやがて昔そこにいたという空想に成り代わります。人間的合理性は自動的に崩壊します。

だけどそこにぼくはいないのです。ぼくはぼくの生きている内に合理性を破壊したい。窮屈な現実を拡張したい。そういうささやかな反抗がカフカマグリットに死を学んだぼくの散花集です。

花は散ります。有機体は解体します。存在は空想です。有機体とはみなさんのことです。そういうことです。

note.mu

 

追記(2018/04/15)

noteのマガジンは100個しか追加できないようなので、今日からは下記のマガジンで続けていきます。

note.mu

日記9:髭

髭が邪魔だ。毎朝出社する習慣が無くなった今となっては髭を剃るのも億劫になってしまった。別段濃い方でもないが一々剃るのは面倒だ。こんなものは寝て起きたらつるんと無くなっていたらよいのだ。一応寝る前にはそのように髭の神様にお祈りしているが一向に無くなる気配がない。あまり不躾な願いだから向こうで気を悪くしたのかもしれない。もしかしたら一本一本に名前なぞ与えて自分の子供のように思っているのかもしれない。であるならとんでもない馬鹿だ。祈るのも金輪際よそうと思う。世の中には他人の毛を抜いて生活している素晴らしい団体もあるようだが、そういうところは髭だけでなく金まで持っていくつもりなのでいまのところは遠慮している。大体望んでもないのになんで生えてくるのか。人の顔だぞ。苔でさえ気を使って避けてる。人の顔はどれだけ洗ってもなぜか美しくならないんだ。褒めるところがない人に向けた「清潔感を出せ」というアドバイスを聞いたことがあると思う。せめてそこだけでも空気を読んで顔面の環境保全にご協力願いたい。こちらの希望は充分伝わっていると思う。いままでも散々いらないとか邪魔だとか結構ダイレクトな精神攻撃を無意識レベルのテレパシーで断続的に与えている上に、もう何年も剃刀による物理攻撃まで加えている。それでも平気な顔をしている。どう考えても宿主より強いだろう。もう独り立ちしてもいいんじゃないか。皮膚もそう言ってる。たのむよ。

日記8:歌とミザントロープと散花集

夜。月が充血して人間が興奮している中、お嬢さんとカラオケに行った。aikoとかXとかおよそまともな成人男性なら避けて通るようなのを歌ったけど、高いところも予想より楽に出た。腹筋が付いたのかもしれない。じつは12月あたりから軽く筋トレをしていたのだ。最近さぼってたけどまたやろうかなという気になった。お嬢さんはラルクの侵食を歌っていた。見るたびに思うけどMVがほんとかっこいい。やっぱりラルクはこの時期が最高だよなあと思ったけど、思い出補正なのかもしれない。

1月はミザントロープがひどかった。ネットで人間の活動をちらっと目にした瞬間に胃に革命の準備が走りだすレベルだ。だからTwitterもほとんど見なかった。そんなわけで時間が余る。寝るのにも飽きていよいよ退屈になった。金がなくて時間があるという状況は資本主義にどっぷり浸かった現代人の軟弱なメンタルを鍛えるには申し分のない環境だった。ちょっとしんどかったけど、まだ落としきれていなかった「なんでも金で解決しよう」とするいわゆるお客様根性的な刷り込みをまたちょっと落とせたかなと思う。他人にやらせるのが資本主義だ。自分でやれば金も使わないし退屈もマシになるだろうということはちょっと考えれば分かる話だ。もちろんそれでぜんぶが解決するわけじゃないけど、釈迦が言ってたのも現象レベルではこういうことじゃないかと思う。神さまとか鰯の頭とかに人生をお任せする決心がつかない人間は、自分の力の範囲の唯我独尊でなんとかやっていくしかないのだろう。いまはミザントロープの反動がきているようで、もっと人間と関わろうという気分になっている。

散花集*1というものをつくっている。空想スケッチのような小品のコレクションです。しばらく更新してなかったのだけど、またぽろぽろ散らしていこうかと思っている。noteで公開しているので、チェケラしてください。いいねしてください。コメントしてください。サポートしてください。

日記7:金と女

あけましておめでとうございます。いままで考えたこともなかったが、この挨拶は年末を無事に乗り越えて一安心という意味合いの挨拶だったらしい。年末に「よいお年を」と挨拶をするのも、うまく年末を乗り越えましょうねという意味なのだそうだ。*1

こんなことをわざわざ調べたのは、よい年などというものがないなんてことは良識ある大人なら分かっていて当然のことなのにどういうつもりでこの挨拶があるのだろうと思ったからに他ならないが、もしかして人知れず世間に増殖していたダダの黴菌だろうかと嬉しくなっていたため、調べた結果がこれでげんなりした。

年が明けてからほとんど外に出ていないがどうにか初詣には行くことができた。その際に目をつけておいた木があるのだが、これは個人的にこれから推していきたいと考えているメンバー(世界というグループの一員)だ。昼となく夜となくぼんやりしていると人間社会の流れに取り残されてしまっていて、気づいたら二週間近く経っている。そのスピード感の違いから人間種族との交流が難しく思えてきたということもあって、この子に穿った穴を日々参拝している。穴を覗き込んで満足しているところをフロイトとかいう変質おやじに見つかりでもしたらすぐに無意識の欲望を世界中に暴露されてしまう恐れがあるが、奴もとうにくたばっているはずなのでその心配は要らない(そもそも日々参拝しているというのがレトリックの一種であって事実ではない)。

しかしトリスタン・ツァラが何かのインタビューで堂々と回答していた「人生でいちばん好きなのは金と女です。」というのがいまさら真に迫ってきているのも事実だ。これがあまりにも真実に近いので次に行き合った人間に突然この言葉をこの世の真実として告白したいくらいには何かが高まってきている。何かというのはいうまでもなくぼくの社会性のことであるが、いまはまだ冗談で言えるこの言葉も、しまいには冗談でなくなってしまうのが人生の恐ろしいところで、欠乏の度が昂じてくるにつれだんだん危険になってくる。「姉さん事件です」という声が夏の日の蝉のようにしつこく鳴り続け、流れる雲に混じって高嶋政伸の顔が空中に申し訳なさそうに浮かんでくるあたりで頭が朦朧としてきて、体内の柔らかい部分から事件がどろりと世間に漏れ出してしまう。金のために常軌を逸した人間などはいくらでもあるし、女のために気が狂ったやつらはよく結婚というものをやっている。たいへんだ。その後で正気に戻らなければまだいいのだが、たいていは手錠が嵌められた時点で正気に戻ってしまう。ほんとうにたいへんなのだ。

*1:

昔の日本では大晦日(おおみそか、12月31日のこと)を迎えるまでには沢山のしなければならないことがありました。(一部は今でも残っています)

1.支払い。昔は日用品をつけ(クレジット)で買い年末に清算していた。この支払いが出来るかどうかが庶民にとっては一番の心配ごとだった。
2.大掃除
家中のチリを払い、障子を張替え、畳を干す。最後に神棚や仏壇の拭き掃除。
3.すべてが終わると年越しそばを食べて一年の無事を喜びあい、新しい年が無事迎えられることを神仏に感謝しお酒を飲んだ。

年末に外出先で知人に会ったとき、これらのすべてのことを念頭に「今年もいよいよ終わりですね。大晦日を迎えるまでいろいろ大変でしょうが、お互いにがんばりましょう。どうぞ良いお年を(無事大晦日が迎えられますように、夜逃げなどしなくて済むように)」と挨拶したわけです。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/738713.html?from=recommend  

夢日記1:猿と同居

猿と同居していた。ふと気づくと猿はたまたま近くに置いてあった電気シェーバーに興味を示し、恐る恐るいじっていた。

ぼくはいつの間にか夢の中にいた。何人かの男女のグループで樹海を探検していた。昔の同窓生のようだった。ぼくはその中の一人と付き合っていた。友人が撮影するビデオカメラの前で「あいつはいい体してるよ」となぜか得意げに語り始めた。実際にそんなことを思っていたわけではなく、ただそんな感じのことを前から言ってみたかっただけだった。そのことも言い訳のように言った。その場には当然「いい体してる」と言われた本人もいたが、配慮することも気兼ねすることもなかった。

なにかを発見した。それをどうこうしようとしたら、警察がやってきて怒られた。樹海で遊ぶなとかそういうことを言われたのだと思う。おとなしく引き上げることにして、懐かしい感じのする教室に移動した。おそらくここにいるメンバーが出会った場だ。黒板の前に集まって、撮影したビデオを再生した。それを見てはしゃいだり、追い返されたことへの不満を言ったりしていたら目が覚めた。

何かすごく面白い夢だったと感じて夢の内容を記録していたら、友人が訪ねてきてすぐ出掛けることになった。書いてる途中だから後にしてくれと思ったが、結局はついていくことにした。急いで身だしなみを整えていると、猿が手鏡を持って不思議そうに見ているのが目に入った。まだ使い方を理解している様子ではなかったが、顔面の毛は半分以上無くなっていた。

出掛けてから少しして鍵を閉めるのを忘れていたことに気づいた。友人には先に行っててもらい一旦家に戻った。ふと猿が何処かに行ってしまう気がして、様子を見にいった。猿は完全に鏡を使いこなしていて、ケミストリーの黒い方みたいな感じに毛を整えていた。「ぼくが帰るまで外に出るなよ」と声をかけると、当たり前のように返事が返ってきた。「でるよ」。ぼくは猿が流暢な日本語で返事を寄越したことにではなく、本当に家を出るつもりでいたことに驚いた。「たのむよ」「やだよ」「どうしたらいい?」「原宿に÷€€€があるからそれを買ってきてほしい」「買ってくる間にいなくなるじゃん」「そうだよ」「どうしたらいいんだよ」。こうしている間にも先に行かせた友人のことが頭にあって気が焦っていた。猿とのやりとりは平行線のまま埒が開かないので「絶対に外に出るなよ」と言って友人の元へと急いだ。きっと猿はすぐにでも出かけるだろうと思った。

日記6:虫のいい話

人類の精神を蝕む労働という名の合法ドラッグにまたしても手を染めてしまった。人間が精神と肉体とを併せ持つ生命体であると同時に生と死を乗せた方舟である限りにおいて、労働が適法状態にあるのはとんでもない異常事態であり非常に危険であることは論ずるまでもない。直ちに法律で禁止すべきである。ただし法律も禁止すべきである。そして禁止することも禁止すべきである。ところで、昭和日本にほうき星のように登場し「地上とは思い出ならずや」「此処にこうしていることが実は昔なのではないか」と喝破した、早すぎた弥勒*1イナガキタルホ大人の視座に立てば、人類の行く末もそれを考える人の脳髄にあらかじめ空想的に用意されたエンターテイメントのひとつでしかないことがわかる。それについて考えるのは前世で何かおびただしい悪行を為した業の深い人か或いはおそろしく暇な人かそのどちらかだけで充分だ。要するに個人的趣味の範疇を出ない。ディストピア世界の観察対象という興味以外に人類になんの関わりも持たないぼくがやることでもない。そんなわけで人類全体のではなくごく個人的な興味からこの労働依存を断ち切りたいとずっと思っているのだけど、また戻ってきてしまった。

しかしこのこと自体は問題ではない。依存状態にあることが問題なのだ。それでも昨年よりは中毒症状もややマシになってきて、月の半分くらいはだいたい寝て過ごしている。月が満ちてくると眠りながら月面うさぎと戯れ、月が欠けてくると地上で文字を追うような生活である。そんな中なぜか金銭的に年を越せないのではという懸念が発生していた。ぼくはこんなに社会的現実を無視しているのに向こうは一向に気づかない様子で迫ってくるので仕方なく短期バイトなどをやってみている次第だが、それについてはあと数回行けば終わりだ。ともかくこれで無事に年を越せそうだ。

行き当たりばったりのようでいて、そのわりに不安はない。近頃では生きていることと死んでいることの違いもよくわからなくなってきたので、大抵のことは「なんとかなるだろ」で済ましてしまっている。そして実際になんとかなっている。それはべつにいまに始まったことではない。不安がって未来のことを考えたところで人間も地球も太陽もぼくの考えた通りに動いてくれるわけではないのだから、行き当たりばったりなのは元からなのだ。違いがあるとすれば、起こってもいないことに頭を悩ますか、起こったことに対処するかの違いだけだろう。

あえて先のことを予測しないようにしていると、偶然性の矢*2が突き刺さることがある。とつぜん思い立って新しいことを始めるとか、まったく頭になかった方面から連絡がきて環境が激変するとか。クリスマスには右手を貰ってとても嬉しかった。ペン挿しとして使っているが、これも完全に想定外の出来事だった。小説とか映画とかストーリーを持つ創作物においては予測できないことがひとつの売りになっている。最初から最後まで予測した通りに事が終わるのなら、それはあえて読む必要のない小説であり*3、あえて生きる必要のない生である。そんなことは機械にでもやらせておけと思ってしまう。

そんなわけで、ぼくは思考の外、想像の外からやってくるなにかをいつも待っている。できることはなにもない。起こった出来事が待ち望んでいた矢だと思ったらそれを受け入れるだけだ。つまり「ぼくは何もしませんがどうにかしてぼくを満足させてくださいね」という幕末的*4な虫のいい話である。

*1:

弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥勒菩薩

*2:この矢はいわゆる恋のキューピッド的な化物から強奪され、後にスタンド使いたちの能力を開花させていったものでもある。

*3:あえて読む必要がないなどと言い切ってはみたものの、再読の愉しみを知らないわけではない。ぼくのように頭の弱いならず者においては再読する頃にはすっかり内容なんか覚えていないのだが、賢明な諸君においても初読と再読とではなにかしら違った風に読めるのではないかと思う。でなければその作品は二回も読む必要のない小説だったということになるだろう。

*4:

ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ええじゃないか