1421 バベルの図書館30 逃げてゆく鏡

ずっと読もうと思っていた。たぶんパピーニの名を知ったのは辻潤からで、そこから計算すると、かれこれ10年くらいは経過している。辻潤の「にひるの漚」*1にパピーニの自叙伝が引用してあった。*2

よほどお気に入りだったらしく、パピーニを指して私の親友と書いている。それだけでぼくが読むのに十分な理由になるのだが、古書が比較的高価だったしなんとなく機会に恵まれず忘れていた。すると今度はカイヨワ『夢について あるいは暗黒の島の虜人』*3の訳者あとがきに「病める貴族の最後の訪れ」(『逃げてゆく鏡』*4収録の邦題は「<病める紳士>の最後の訪問)」)から引用されている*5のを発見した。その引用がまた良くて絶対に避けては通れない作家だと思ったんだけど、そのままずるずる数年が経過していた。その後、本をまともに読めなくなってウィッシュリストに入れておいた本を次々削除していって残ったのがこれだった。結果としてこれは読むべき本だった。おかげで読書するためのモチベーションが復活した。

10篇収録されているが、誇張なくすべてが良かった。ここに収録されている短篇には自分のことが描かれている。この自分とはぼくの自分のことではなくて、無人称の自分である。つまり誰にでも当てはまるであろう自分のことだ。

ボルヘスが序文で「この作家が度し難いほど徹底的に詩人だったということなのであり、その主人公たちは、さまざまな名のもとに、等しく詩人の自我の投影であるということなのである。」と書いた通り、パピーニは詩人であった。それは、言葉遣いの点でなにか詩的な表現が使われているというわけではなく、パピーニが彼自身を追求した結果として人間の根源に迫っていることで、逆説的にすべての存在に共通する生の苦悩を掬いあげていることによる。

 

# 作品

泉水のなかの二つの顔

過去の自分と対峙する話。自分の生き方が根本的に変わってしまったことに気づいたとき、これまでとは違う新しい道を選ぼうとするときに、きっと感じるであろうことが書かれている。作中では結局過去の自分を殺すことになるが、生きている以上は避けられないことだと思う。

完全に馬鹿げた物語

自分の生活のすべてを知っている男と対峙する話。これも過去の自分と対峙する話のレパートリーのひとつと言っていいだろう。全生活史を目の前で淡々と余すところなく読み上げられるのだが、そこには自分でも忘れていたような黒歴史まで含まれており、しかもそれを出版すると言っている輩に耐えられる人間がいるだろうか?

しかもあの男は、臆面もなく、あの物語を自分が勝手に空想のうちに生み出した、と断言したではないか。それでいながら、このわたしに向かって、わたしの生活を、しかもわたしの全生活を、想像上の物語として、呈示してみせたのだ!(P42)

今朝方、遅い時刻に目を覚ますと、奇妙な印象が身につきまとって、離れようとしないのだった。自分がすでにしんでしまったようであり、埋葬させるのをただ待っているだけの身のようでもあった。わたしはただちに葬儀のための手配をした。何一つ手落ちがあってはならないと考え、みずから葬儀社へ出掛けた。そしていまは、刻一刻と、柩の到着を待ち受けている。早くも、彼岸の世界に属しつつある自分を感じていて、わが身を取り巻く一切の事物が、もはや自分とは何の係わりもなくなり、何もかも終ってしまった、何もかも過ぎ去ってしまったという、いわく言いがたい気配を反映させている。(P47)

この最後の感慨は「泉水のなかの二つの顔」とも「きみは誰なのか?」とも通底している。パピーニは、自分のことを反省する視点の自分と反省される側の自分との分裂に敏感だったのかもしれない。反省する側も常識的には別人とは言えないのだが、とはいえ比較してみるならやはり自分とは反省される側の自分なのであって、反省する側の自分と直接的な自我とはやはり感覚的に隔たりがある。しかし反省する側の自分を葬ってしまった作中人物には喪失感や虚無感が漂う。

精神の死

精神の力だけで自殺しようという男の話。

《こうではない。——よいか。死の恐怖に打ち克たねば。だからこそ、自殺の準備を整えるのだ。しかし、こうではない。——力ずくによる自殺行為。それは、屠殺屋のする真似だ。そんなことは避けなければ……——わたしのためにふさわしい方法を考え出すこと——おのれの命をおのれの力で、少しずつ破壊し、否定していかなければ。不意に、肉体を切り刻んだりしてはいけない。そういう真似は、馬鹿げている……》(P53)

あなた、気をつけたほうがよいですよ。どんな変人かは、ご覧になれば、すぐにわかりますからね! 過去の記憶など一つもなく、あの人にとって重要なことなどこの世に存在しない、と言ってもよいでしょう。(P59)

みずから死を招くための新しい方法、みずから手を下さずに死ぬ方法、すなわち最もすぐれた自殺の方法について、あなたは言及されています。(P63)

では、人生の意味が死のうちにあることを、それがひたすら死のうちにのみあることを、あなたはまだわかっていないのですか? ひたすら死を望む者だけが、この世にあるうちからすでに死んだ気持になっている者だけが、人生を楽しんでいるのです、その味を味わっているのです、その意味を知っているのです!(中略)ぼくにとって、それは発見でした、啓示でした、新しい存在形態の始まりでした。(P67)

あの日以来、ぼくは生を諦めて、死んだ魂になろう——たちまちに息を引き取ってゆく者になろう——と決意したのです。ただし、不自然に、急に、死を迎えたり、外的手段や物質的手段を用いて、死ぬのではありません。埋葬が必要になる以前に、早くも、一個の死骸となるのです——それは死が自然なものであり、みずから招いたものとは思われないような方法で、自殺することなのです。ここに、ぼくの発見がありました。みずからの意志で、みずからの精神の力で、みずからを殺すこと。武器を使ったり、腕力を用いたり、毒薬を含んだりせずに、みずからを殺すこと。死にたいという意志の力で、死んでゆくこと。それこそは、たったいま、ぼくが実行しつつあることです。(P72)

他の人々から見れば、ぼくは何物にも値しないでしょう——ろくに物も食べないし、本も読まない、みずから楽しむこともないし、人を愛することもない、遊びもしなければ、稼ぎもしない。ぼくはすでに半ば死んでいるのですから。かすかに息を吸って、わずかに動いているだけ…… でも、ぼくがこういう一日一日を手放すことはないでしょう。たとえ、ロンドンじゅうの美女や、アメリカじゅうの金庫と交換しないかと言われても。他人にとって空と呼ばれるものも、ぼくにとっては一つの窓にすぎない。(中略)ぼくを心のうちで愛してくれるほどに完璧な女性はこの世にいないし、ぼくは彼女を毎日、頭髪から足の指先まで、まるで『聖書』のなかの神のごとくに、創造することができる。そしてあなたもご存知の、あの狂信的な哲学者たちが生み出した、思索の体系も概念も、所詮は、時間と空間の枠組みを越えて現実から直接に体得したものに比べれば、紙の上の戯れであり、糸の切れた凧にも等しいでしょう……(P74)

<病める紳士>の最後の訪問

自分が誰かの夢の中の存在に過ぎないことに気づいた人物の話。

なぜ、わたしこそが病である、わたし自身が病だ、と言わないのですか? わたしが持っているものなど、何もありません、おわかりですか? わたしに帰属するものなど、何もありません! そうではなくて、わたしが誰かのものなのであり、わたしの帰属する何者かがいるのです!(P85)

おそらく、この世界全体でさえ、彼に似せた、さまざまな存在たちの夢が往来する、変転きわまりない被造物に過ぎないでしょう。だが、わたしとしては、あまり概念的なことは申し上げたくない。形而上的な議論は無思慮な輩に任せておけばよい! わたしとしては、自分がある壮大な夢想者によって生み出された一想像物に過ぎないことを、恐ろしいまでに確信している。そのことだけを言っておけばよい。(P86)

もはやいまのままのわたしではいたくない

まったく別の存在になりたいと考える人物の話。

要するに、この世に存在しないことを願っているのではなく、むしろ絶望的なまでに激しく別の形で存在することを、別人になることを、わたしは願っているのだ。しかも、いまのわたしにならないことへの、絶望的なまでの意志を、持っている。なぜならわたしこそは、自分が決して持てないであろうものを持ちたいと願う人間なのだから。わたしはわたしでない者になりたい。なぜなら、わたし以外の者になれないことを、わたしは知っているから。(P103)

きみは誰なのか?

自分のことを誰も知らない<時の裂け目>に彷徨い込んでしまった人物の話。

きみは誰なのか? ついに、自分自身に向かって、わたしはこの問いを発した。この問いの重大さに、かつ深刻なことに、気づくやいなや、他の事はすべて消えてしまった。(P123)

魂を乞う者

《これが最も平均的で正常な人間の生涯なのだ。こういう連中を基準にして、頑固な医者たちは、わたしのような人間を、特殊なものと軽蔑し、変人扱いし、頽廃的な精神の持主である、と呼ぶのだ! これこそが、お手本となる人間、典型的な人間、わたしたちの時代の英雄、巨大な機械のなかの小さな歯車、長い城壁の一片の石ころなのだ——こういう人間ならば不健全な夢は見ないし、狂気の空想に走ることもない。わたしなどにはとうてい不可能な、生きているとは思えない、想像を絶した存在。そういう人物が、たったいま、わたしの目の前にいるのだ——自分の色褪せた仕合わせに気づかない恐るべき存在。》(P139)

あの晩以来、二度と、わたしには普通の人間たちが笑えなくなってしまった。(P140)

逃げてゆく鏡

見せかけだけの目的、明日に向かって奔走するしかない人間の根源的な悲しみをぶちまける話。

この恐るべき事実を、ついに、彼らは発見するであろう。すなわち、未来は未来としては存在しない。未来とは空想の産物にすぎず、現在の一部にすぎない。そして日に日に逃げてゆき、遠ざかってゆくこの未来のために、不安な生活や、悲しい生活や、苦しみの生活に耐えるのは、限りなく愚かしい日常のなかでも、最も愚かで痛ましい行為である。
《みなさん、わたしたちは死のためにおのれの命を失っている。空想のためにおのれの現実を浪費している。わたしたちは日々を、実際には何の代わり映えもしない別の日へ、導いてくれるだけだというのに、そしてそれ以外には、何の価値も持たないというのに、ただそれだけの理由で、価値あるものと思い込んでしまっている…… あなたがたの日常は、自分の破滅のためにあなたがた自身がみずから仕組んだ、苦い欺瞞そのものだ。そして逃げてゆく鏡へ向かってあなたがたが走りつづけることを、冷たく笑えるのは、ひとり悪魔だけであろう!》(P167)

# 目次

序文 J・L・ボルヘス
泉水のなかの二つの顔
完全に馬鹿げた物語
☆精神の死
☆<病める紳士>の最後の訪問
もはやいまのままのわたしではいたくない
☆きみは誰なのか?
魂を乞う者
身代わりの自殺
逃げてゆく鏡
返済されなかった一日

*1:この「にひるの漚」もまた良いので、特に良い箇所を引用しておく。パピーニは辻潤の精神的な同族だと思われるので、間接的にパピーニの紹介にもなるだろう。ちなみに「漚」は「あわ」と読む。「泡」の意味。

一切は生きている上の話だ。わずか今から百年も経てば、現在地上に蠢動している生物、少なくとも人間はみんな消えてなくなってしまうことはまずたいていまちがいがなさそうだ。死んでしまえば今日死んだ人間も、百年後に死ぬ人間もつまりは同じことになってしまう、世の中で一番確かなことといえばまずその位なものだ。

みんな自分達が好き勝手な熱を御相互に吹き合うがいい。すべては生きている上での話である。

*2:「にひるの漚」は、講談社文芸文庫の『絶望の書・ですぺら』で読める。

*3:

*4:

*5:「私が実在するのは、私のことを夢にみる一人の人間が存在するからです。睡り、夢をみ、私が行動し、働き、生きているのを見ている一人の人間、いま、その人は、こうして私があなたに話をしているさまを夢にみているのです。その人が私のことを夢にみると、私の存在がはじまり、夢から覚めれば、私は存在しなくなるのです。私は、その人の想像力のたわむれにすぎず、その人の精神が創りだすものであり、はてしない夜の幻想に招かれた客なのです。この一人の人の夢が、ながく持続し堅固なものであればこそ、目覚めている人々にとっても、私の姿が目に視えるようになったのです。」

ルーヴル美術館展 愛を描く

# 作品

40 マリアーノ・ロッシ『聖アガタの殉教』(1785-86年頃)

画面中央の上半身を裸にされている女が聖アガタ。キリストに身を捧げ、異教の神に従うことを拒んだために、乳房をひきちぎられたという伝承があり、その準備をしている場面が描かれている。アガタの頭上から近づく天使の手にはシュロの枝が握られているが、シュロの枝は殉教者の象徴であり、死に対する信仰の勝利を示している。

周囲の女が目を逸らしたり悲痛な面持ちをしている中、犬がなにもわからずにちょこんと座っているのが、むしろ重要のように思われる。この場面が残酷なのは人間の尺度で考えるからそう思われるのであって、天使たちにとっては勝利であり聖アガタが肉体つまり現世との軛を克服して列聖された祝福の場面である。

上部中央の天使と下部中央の犬、そして画面中央で異常に白い肌を見せている聖アガタ。この天と地を結ぶラインだけが人間の蒙昧さから解き放たれているように見える。

43 ピーテル・コルネリスゾーン・ファン・スリンヘラント『悔悛するマグダラのマリア』(1657)

髑髏、砂時計が現世のはかなさを象徴していて、開かれた書物はマグダラのマリアに聖書の知識があることを暗示している。

これはどこなんだろう。一見部屋のようにも見えるけど、普通に木が生えている。それがデペイズマンのような働きをしていて、マグダラのマリアを描くために象徴を集めただけのシンプルな絵にしては思いのほか時間をかけて眺めてしまった。

51 サミュエル・ファン・ホーホストラーテン『部屋履き』(1655-62年頃)

ホーホストラーテンはレンブラントに弟子入りして風俗画、肖像画、宗教画などを手掛けた。一方で理論家でもあり、オランダ画派についての基本資料『絵画芸術の高き学び舎への手引き』を執筆している。

17世紀当時、こういう謎解きみたいな絵は珍しかったんじゃないだろうか。今回の展示の中でも他の絵画と一線を画す異様な雰囲気で飾られていた。作者が理論家だからこういう頭を使わせるような絵の作り方をしたかったんだろうなというのは妙に納得できた。間接的な物証だけで表現することで、各アイテムの重要度が増している。直接主題を描く以外にも方法はあるんですよ、とドヤるホーホストラーテンの得意顔が目に浮かぶようだ。

こういうテイストで、意味がありそうなんだけどどれだけ解釈しても意味を持ち得ない絵みたいなのも描いてくれたらもっと良かったかもしれない。

53 ニコラ・ランクレ『鳥籠』(1735年頃)

若い女性が鳥籠を持つことが、恋のとりことなる幸福の寓意を示していると解説にあって、その意味の転移は面白いなと思った。図録によると、鳥はそもそも性的な意味に用いられることが多かったらしい。たとえば、鳥の飛翔は失恋を表し、鳥の死は処女喪失を表すといった具合に。

65 ジャン=バティスト・グルーズ『アモルに導かれる「無垢」』または『ヒュメナイオスの勝利』(1786頃)

「無垢」と「理性」の擬人化がその他の象徴と相まって成功している。「理性」的な建築様式から「無垢」を連れ出そうとするアモルたちが、愛の象徴である薔薇の花で道を示し、未知の冒険へとそそのかす。画面右端に描かれる女性の手から飛び立つ鳩がこれを反復している(すぐ上に飛び立つ鳥は失恋を表すと書いたばかりだが、この鳩が失恋を表現しているとは解釈しづらい)。

グルーズは『壊れた甕』が有名で、それも象徴をうまく使った作品だった。今回の『アモルに導かれる「無垢」』にしてもそうで、お手本のようにきれいな使われ方をしている。

とはいえ、この絵の良さはなによりアモルたちの全身で表現している陽気さや落ち着きのなさであり、彼らによって画面全体に充溢する躍動感がこの絵の最大の魅力だと思う。

67 フランソワ・ジェラール『アモルとプシュケ』、または『アモルの最初のキスを受けるプシュケ』(1798)

プシュケはギリシャ語で「魂」と「蝶」の意味を持つ。蝶は多くの文化圏で、魂の化身と見なされてきた。アモルとプシュケの恋は、「愛が魂に触れた」ことの暗喩。

71 テオドール・シャセリオー「ロミオとジュリエット」(1850頃)

シャセリオーは若くしてアングルのアトリエに入門したが、イタリアから戻って以降、アングルと決別。ドラクロワの豊かな色使いに関心を示した。エスキースだからということなのかもしれないが、この印象主義的なぼやけたタッチが良かった。

73 ウジェーヌ・ドラクロワ『アビドスの花嫁』(1852-53年頃)

ドラクロワはバイロンの著作に心酔していて、この作品の主題もバイロンの詩「アビドスの花嫁」(第2歌、第23節)からとられている。

# 構成

プロローグ「愛の発明」(cat. 1-3)
第1章「愛の神のもとに─古代神話における欲望を描く」(cat. 4-32)*1
第2章「キリスト教の神のもとに」(cat. 33-44)
第3章「人間のもとに─誘惑の時代」(cat. 45-66)
第4章「19世紀フランスの牧歌的恋愛とロマン主義の悲劇」(cat. 67-74)

# 概要

【東京展】
会期:2023年3月1日ー6月12日(月)
会場:国立新美術館

【京都展】
会期:2023年6月27日-9月24日
会場:京都市京セラ美術館

公式:【公式】ルーヴル美術館展 愛を描く|日本テレビ

*1:cat.23の作品は出品なし。図録にのみ掲載。

260 バニシング・ポイント 4Kリマスター版

『バニシング・ポイント』*1は、権力への反抗と現実に敗北する者たちを感傷的に描いた多くのアメリカン・ニューシネマ*2とは一線を画し、作品全体の乾き切った精神性に加え、遡行と跳躍によって非直線的に描かれる【時間】という概念の表現を革新、かつてない高みに達した鮮烈・孤高の雄篇だ。現実に対する底知れぬ虚無と諦念を抱え、速度の限界に挑むコワルスキーの姿は、観る者をスピードの陶酔と快楽の果て、時空も生死も超越した無限の境地へと誘っていく。

映画『バニシング・ポイント 4Kデジタルリマスター版』公式サイト

この走りっぱなしの映画の中でDJ初登場シーンは異様だった。背筋を伸ばして犬を散歩させている謎の人物を街の人々が見守る。この謎の人物がラジオDJだったことは後で分かることになるが、DJも喋り始めると黒人のビートを感じる心から炸裂するような激しいトークを展開する。全編通してゆったりした映像はあそこだけだったと思う。あえて意図的に時間を間延びさせることで、その後のスピード感をより魅力的なものにさせている。

コワルスキーの魅力的な点は、彼に踊らされる人々を一顧だにしないところだ。たくさんの人に注目されていることを知りながら、あえて悪人にも善人にもならず、一個人としての生を全うしていた。走り屋に絡まれても、自身の趣味として相手を走り負かし、強盗に襲われても、意図せず有名人になってしまったことも顧みず乱暴に追い払う。全裸の女に誘われてもタバコを一箱もらっただけだ。彼は最後まで彼自身だった。強いてそうしているというよりも、そういう形でしか存在できないというのがグッと来た。そもそも仕事としてはそんなに飛ばす必要もなかった。彼がそうでしか満たされない人間であったからそうするしかなかったのだ。

ちょうどいま読んでいる本に以下の文章がある。

では、人生の意味が死のうちにあることを、それがひたすら死のうちにのみあることを、あなたはまだわかっていないのですか? ひたすら死を望む者だけが、この世にあるうちからすでに死んだ気持になっている者だけが、人生を楽しんでいるのです、その味を味わっているのです、その意味を知っているのです!

ジョヴァンニ・パピーニ「精神の死」『逃げてゆく鏡(バベルの図書館 30)』*3

動物と人間を精神において区別しようとするなら、まさにこれをおいて他にはないのではないかと思う。生と死を克服することができるのは人間だけだ。

最後、消失点に向かう彼の表情を微笑ませたことで、彼の人間性は完璧に表現された。そうでしか在れない人間が当然の帰結として破滅に至ったとしても、それは決して悲しいことではない。悲しいのは人間存在そのものだ。作品としてだけでなく、コワルスキーという人物にとっても最良のエンディングだったと思う。とても良い映画だった。

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*1:『バニシング・ポイント』(Vanishing Point)は、1971年製作のアメリカ映画。リチャード・C・サラフィアン監督によるロードムービー、カーアクション映画である。
バニシング・ポイント (映画) - Wikipedia

*2:アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでベトナム戦争に邁進する政治に対する、特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメントである。
アメリカン・ニューシネマ - Wikipedia

*3:

1419 不思議の国のアリス

古書店に50円で置いてあったのを見つけたので購入。ここ最近はぜんぜん本が読めなかったのでリハビリを兼ねて読んでみたところ、これがなかなか良かった。いろんな翻訳が出てると思うけど、これは「新しい世代が時代のずれによる抵抗を感ずることなく読めるようにと心がけた」と翻訳者のあとがきにあるように、子供にも楽しく読めるものになっていると思う。和田誠さんの挿絵も子供向けのやわらかいイラストで目に嬉しいものになっている。中でもチェシャ猫の絵が特に気に入った。丸々とした体で木にちょこんと掴まってる姿が人でも殺しそうなほどかわいげがある。

これほどの有名作なので内容はだいたい知っていたけど、このチェシャ猫の場面が一番和む。猫なしのにやにや笑いだけ残った場面には快哉を叫んだ。もうほとんどここを読みたくて読み始めたようなものだ。

他にも下記のような含蓄に富んだ言葉もあり、子供向けといって簡単に片付けられる作品ではなかった。

「だってそれはしかたがないさ」と猫はいいました。「ここに住んでるものはみんな気ちがいなんだから。おれも気ちがいだし、あんたも気ちがいさ」(P83)

「どうして、あんなに悲しんでいるの?」と、アリスがグリフォンに聞くと、グリフォンは、前とほとんど同じ調子で「ただの空想なんだよ、あれは。何も悲しいことなんかありゃしないんだ。さあ来いよ!」(P126)

 

<目次>
兎の穴に落ちる
涙の水たまり
コーカス・レースと長いお話
兎はビルを送りこむ
イモムシの忠告
豚とこしょう
気ちがいお茶会
女王のクローケー・グラウンド
亀まがいの物語
海老のスクウェア・ダンス
だれがパイを盗んだか?
アリスの証言

あとがき

<備考>
翻訳 福島正美
イラスト 和田誠
角川文庫50年8月30日初版発行。

1376 虚無思想研究 第一巻・第一号

■循環論証の新心理概要(1) 古谷栄一
公理哲学に対する反論というか、対立する立場ですよという姿勢を見せているだけの文章で、論の中身についてはまだ何も書かれていない。

 

■ふらぐめんた 武林無想庵
非常に良かった。辻潤が自分に似ているといった通り、同じ気持ちで読める。人間性が近いんだろうなと思う。

 

■十二階が折れた 西村陽吉
西村陽吉という人は聞いたこともなかったが、この「十二階が折れた」は結構よかった。目次を見た時点では何かしら奇を衒ったタイトルなのかなと思ったが、あらゆる知識と理性の突端が折れてしまったことを、震災によって浅草の十二階の先端が折れたのに例えていたのだった。浅草の十二階というのはよくわからないが、なにかしらランドマークタワーのようなものがあったのだろうと思う。その直後の文章が良い。

いつまでこの状態が続くか? そして遂に人間もポキリと頭だけ折れてしまった、首なしの幽霊が白昼の銀座を横行するようになるか? それは俺の知ったことではない。

買いそびれてしまっていた辻潤『ですぺら』を安く見つけて悩んだが手に入れたというだけの話なのだが、震災のごたごたや人間の浅ましさにうんざりしていそうな気分で語られていて良い。

 

■ニヒリスト隻言 尾山放浪
短い文章のなかで、下記ベンジャミンからの引用らしい文章がひときわ輝いて見えた。尾山さんのお気に入りだそうで、英文の状態でよさそうと思ったけど、翻訳にかけてみたらちょっと微妙な日本語になった。それが指している内容は別に変わらないから良いんだけど、言葉選びのセンスがあまりないなあ。自動翻訳に言うことではないか。

I cling to nothing, stay with nothing, Am wed to nothing, hope for nothing

DeepL翻訳:何もないところにしがみつき、何もないところにとどまり、何もないところに嫁ぎ、何もないところに望みを託す。

 

■こんとらぢくとら 辻潤

明日のことを思い煩う勿れ——キリストは彼の生活を浮き草と同様に取り扱っていたのだろう。御心にまかせていたのだろう。

辻潤は何度も読んでいるので今更あらためて語ることもないんだけど、良いものは何度読んでも良いなと思う。彼は本当のことしか言わない。

 

<目次>
循環論証の新真理概要 古谷栄一
無の世界有の世界及び幻影の承認 村松正俊
無価値の狂想 新居格
阿毘達磨倶舎論の無我説に就いて 卜部哲次郎
☆ふらぐめんた 武林無想庵
無根拠礼賛 レオ・シェストフ
辰っちゃんの頁 内藤辰雄
☆十二階が折れた 西村陽吉
ふうふ 高橋新吉
モヂユヒン、クオレカリニ音楽会 夜の思い出、ファストの蚤 吉行エイスケ
☆こんとらぢくとら 辻潤・卜部哲次郎
☆自殺礼賛 荒川畔村
ニヒリスト隻言 尾山放浪

 

<備考>
大正14年7月1日発行。いわゆる第一次虚無思想研究の第一巻・第一号。

1375 オーレリア


統合失調症のような連想の飛躍が多くあるようだ。たとえば57ページあたりにもひとつある。
喧嘩の制裁にはいろうとしたができなかった場面で、たまたまそのとき通りがかった労働者が息子を抱えていたということから、その労働者をキリストをかついだ聖クリストファだと思い、わたしは呪われたのだという思い込みが描かれている。労働者が子供を抱えていたという事実が、キリストをかついだ聖クリストファと「抱えている」という一致で接続され、さらに喧嘩の制裁に力をふるえなかったことの決まりの悪さから、わたしは呪われたのだという認識に至る。せいぜい想像で扱うべきところのものが事実として解釈されている。このような記述が至るところで見られる。これが「オーレリア」の話を推進していく力でもあり、ひとつの魅力でもある。

一読してシュルレアリスムの印象があった。ネルヴァル自身はシュルレアリスム以前の人間だが、ブルトンがネルヴァルを持ち上げたくなる気持ちはわかる。上述の性質からその印象を受けたのだと思うけれど語の使われ方自体は突飛なものはないので、むしろ病人か聖人かという感じも強い。ネルヴァルが第二部が世間に出る前に街頭に首を括って死んだのは知っていたので、精神が地上から浮き上がりがちな人間の著作としてリアリティを感じられた部分もあったと思う。

 

 

<目次>
第一部
Ⅰ 夢はもうひとつの生である
Ⅱ その女にはしばらくして、また別な町で会った
Ⅲ 現実生活への夢の流出とでも呼びたいものがこのときからはじまった
Ⅳ ある晩、たしかに自分はラインの岸辺に連れてこられたのだと思った
Ⅴ まわりではあらゆるものが姿を変えていた
Ⅵ そのような考えは、つぎに見た夢でいっそうたしかなものになった
Ⅶ はじめはそれほど幸せだったその夢は、私を大いなる困惑の中におとしこんだ
Ⅷ やがて怪物たちは形を変え、はじめの皮を脱ぎ捨てて
Ⅸ そのような幻が目の前に現われては消えていった
Ⅹ 想念がしだいに私を陥れていったふしぎな絶望をどうやって描いたらいいだろう

第二部
Ⅰ また失った! すべては終りだ
Ⅱ そのような考えが私を投げこんだ失意のほどを語りつくすことはできない
Ⅲ 炎が、心の中のもっとも悲痛な思いにかかわっているこの愛と死の聖遺物を燃しつくした
Ⅳ この幻と、それがひとり居の時間にひきおこした考えとの結果生まれた感情はあまりにも悲しく
Ⅴ そのときから病状はぶりかえして、一進一退をくり返すことになった
Ⅵ その庭に集まった人たちは、みんな星になんらかの影響を持っているものと想像した

あとがき

1374 ムッシュー・テスト


小説というには奇怪な作品。ムッシュー・テストという特異な精神性の記録として読む他ない。ムッシュー・テストは「すべてが可能でしかも何もしない」でいるのを最上だと考える尊大な男だ。この男がヴァレリーの内面の理想だったようだが、その感覚には覚えがある。ヴァレリーはランボーとマラルメに衝撃を受けたらしいが、そもそもボードレールの理想としたダンディズムがそういう韜晦的な志向を持っているということもあり、フランス象徴主義に親和性がある人間は多かれ少なかれそういったことを考えるのかもしれない。「すべてが可能」であるということは、すべてを精神の支配下に置くということとほとんど同義だと思うが、その一片が「明日になったら欲しがるものを、いま記憶に残しておくこと」を望む態度にも表れている。

 

■「友の手紙」46〜48
パリにいる自分とパリを離れた自分とでは、返事、動き、表情などの日常的で些細なことさえ変質し、自然な反応が自然なものではなくなってしまうという素朴な観察から、「わたしたちは、わたしたちを知らぬ多くのものによってつくられているのではないかしら」というほとんど確信めいた疑念の形で個の曖昧性を指摘している。つまり、パリにいる自分とパリを離れた自分とではもはや別の様式で存在しているのだろう、ということだ。

自分(より正確には自分と一体だと思っていた精神)が一個の人間存在に留まるものではない、という感覚はその後も現れる。

 

■「ムッシュー・テストとの散歩」118
「わたし」は「この群衆の断片にはなるまいとねがいながら」も、「この場の厖大な群衆、過ぎゆく豪奢と」一体になってしまうのを止めることができない。しかしながらこれは個が失われてしまったということではない。自分というものが思っていたよりも領域の曖昧なものだったという発見であり、自分の認識している他者は他者ではなく、むしろ自己に属するものだったということだ。精神を緻密に観察することでなされたこの発見は、ムッシュー・テストではなく、友人である「わたし」のものなのだが、「わたし」はムッシュー・テストの鏡像として出現している。

一体となった散歩道全体に溶け合った個々の事物が、それぞれその全体の中に消えていくようなイメージでこの短い文章は終わるのだが、これが非常にイメジャリーに富んでいて、鮮やかなギャロップがすべてを巻き込んで目の前を駆け抜けていく姿がありありと感じられる。

始まりであり終わりである絶えまのない力が、人びとを、人びとの断片を焼きつくす、疑惑を、歩いてゆく章句を、娼婦たちを焼きつくす、絶えざる色彩のギャロップがその場の情景のすべてを、いや消し去られた瞬間までを、何か独特な空虚のなかへと運び去って……

 

 

<目次>

ムッシュー・テストと劇場で
友の手紙
マダム・エミリー・テストの手紙
ムッシュー・テスト航海日誌抄
ムッシュー・テストとの散歩
対話
ムッシュー・テストの肖像のために
ムッシュー・テストの思想若干
ムッシュー・テストの最期
訳注
解説