iPhoneのカレンダーに月齢を表示させる方法

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iPhoneのカレンダーに月齢を表示させる

設定すると上の画像のように「Full Moon」や「New Moon」などと表示されます。

手順だけ簡潔に記します。

  1. iPhoneの設定を開く
  2. アカウントとパスワード
  3. アカウントを追加
  4. その他
  5. 照会するカレンダーを追加
  6. http://www.cantonbecker.com/astronomy-calendar/astrocal.ics を入力
  7. 保存
補足

上記の手順はiOS11.1の情報です。概ねこのサイトの下部に書いてある通りですが、iOSのバージョンが古いため、項目名が変わっている箇所がありました。

ameblo.jp

Googleカレンダーに月齢を表示させる

Googleカレンダーに月齢を表示させる場合はこちらのサイトで紹介されている手順で設定できます。超簡単です。(設定してもiPhoneには表示されません)

blog.alfebelow.com

ユニクロのウルトラストレッチスキニーフィットジーンズがよかった件

www.uniqlo.com

 講習に行ったら上下黒で揃えて来いと言われた。お金をかけたくなかったのでUNIQLOで購入したのがこのウルトラストレッチスキニーフィットジーンズ。履いてみたらすごくよかったので書いておくことにします。

よかった点
  • ぐんぐん伸びる
  • シルエットがすっきり
  • 窮屈じゃない
  • 裾が上がってこない(大事) 

4点目が結構大事。以前持っていたスキニーは足を曲げると裾が上がって脛が見えてしまった。面倒だが畑仕事をするわけでもないのでいちいち直していた。

サイズ感

176cm/64kg でサイズは29でちょうどよかった。

上にも書いたけど窮屈な感じはまったくない。履いていてまったくストレスがない。

 

もともと講習のために購入したものだったけど、買い物をしたら満足してしまって(?)講習には行かなくなってしまいました。ちょうど細身のパンツが欲しかったからまあいいか。

文章を書くのが苦手です。

自分だけが楽しめるものを書くのは得意だけど、他人が読んで楽しいかどうかは正直二の次だった。一般的に、読者目線で書くのが文章作法における基本だということはもちろん知ってはいたのだけど、それがどうも理解できなかった。というのは一般に人気のあるもののおもしろさがぼくには分からなかったからです。

それでも最近心境の変化があった。一般に通用するまともな文章を書くことに興味が出てきた。いつでもクオリティの高いものを書けるのだと言い切れる自信がほしいなあと思ったのだった。何があったわけでもないけど、これはぼくが生きやすくなるためにとてもメリットのある変化です。

まわりの人たちから2周も3周も遅れている気はするけれど、興味のないことはやってられないので仕方ない。飽きたらまたひとり遊びに閉じこもるし、いま楽しめればいいよねという基本方針は変わらない。こういうスタンスでいると遅れてるも何もないので気持ちが楽でたいへんよいです。

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY、通称リミスリ

「limit of sleeping beauty 画像」の画像検索結果

映画をみた。『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』。リミットオブスリーピングビューティー、通称「リミスリ」。
錯乱した女の現実と妄想と思い出のミックスジュース的な作品です。とっても最高でした。
どれが現実で妄想で思い出かっていうのは普通にみてれば初見でも大体分かるようになっています。前衛的すぎて解釈不能みたいな作品ではないです。

生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ

主人公オリヤアキは女優になりたい。恋人は突然いなくなるし、夢は叶わないしで気づいたら29歳。「これからどうしたらいいのよ」ってなったアキが、過去と現在、現実と妄想の間を行ったり来たりして、いまの現実に向き合っていく。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ってセリフは序盤と終盤で出てくる。序盤では問題提起として、終盤ではアキの決意表明として。これがこの作品の一番重要なテーマでした。

これが問題になるのは「もうなにもかも終わってしまった」ような感覚に陥った時だと思う。今さら何をしても意味がないというような虚無感と共にある疑問だと思う。

アキは頭がぐちゃぐちゃになりながらこの問題に取り組んだ。生きるべきか死ぬべきか。答えを出すには過去を振り返るしか方法がない。そこに妄想が挿し挟まったのは、無意識の防衛機制が働いた結果で、アキが直視できなかった過去から逃れるためなのだと思う。

屋上

屋上のシーンが好きだ。真ん中にでーんとベッドが置いてあって、周りに家具が並んでいる。ベッドの背景に椅子だとか地球儀だとか女性の像だとかが雑然と置かれていて、そのさらに向こうには他の建物が立ち並んでいる。このよくわからない空間がデペイズマンみたいな効果を出していてよかった。

アキがブッチと話してる時、ひとりでいる時、つまり恋人のカイトがいなくなった後の屋上には、まさに「もうなにもかも終わってしまった」ような投げやり感がどことなく漂っていて居心地がいい。ダメになることは、それはそれで気持ちのいいことだ。自由の同義語といってもいいかもしれない。自由になるということは価値を持たないということだ。何かに価値を感じていたらそれからは自由になれない。たとえば社会を無価値にしたら社会から自由になれる。夢や人だって同様だ。アキは女優になることからもカイトからも自由になるために「もう忘れてもいいかな、でも忘れたら生きていても仕方ないなあ」なんて思いがあったんだと思う。

ブッチ「時間って、実は流れていないんだよ。過去・現在・未来がすべて同じ空間の中で同時進行してる」
アキ「じゃあ一番幸せな時間に飛ばしてよ」

みたいな会話があったんだけど、アキが一番見たかったのはカイトが居た最後の夜のことだったんだろうなあ。これも屋上だった。上述したよくわからない空間が特別な夜の演出効果を上げていたように思う。うつくしい時間だった。話が先に進まなければいいのにとすこしだけ思ってしまった。 

TRAILERを見て! 

屋上だけじゃなくて、アキが働いてるサーカス小屋だったり、あやしい錠剤入りのジントニックが出てくるクラブだったり、映像的にかなり好みだった。カイトがどこか現実から遊離したような雰囲気を出しつつ包容力も感じられる完全なイケメンな上、いなくなり方がタイミング含めてのらねこ的だったのもよかった。そもそも家出した女がバーでイケメンに拾われるなどという少女漫画式キリストの降臨みたいなシチュエーションからして最高。あるいはアキの錯乱加減もよい。「時間は流れてない」だの「世界はお前のもんだ」だのというブッチのセリフもよい。

www.youtube.com

このTRAILERをみた瞬間にこれは劇場に行かなきゃと思った自分の直感は間違っていなかった。予告ってわりと本編よりも面白く感じたりすることが多いと思うんだけど、この作品はそういう落差がありませんでした。このTRAILERをみて興味が出た人はきっと満足できると思います。

公式サイトで別バージョンのTRAILERもみれます。

ぼくはどこにいる?

これの続き。
街にいる人がその頭の中にいるとは思えなくなってしまった。
ではぼくは?
ぼくはどこにいるのか?

この身体がぼくなのか?
ぼくの身体はぼくではない。
ぼくの脚はぼくのものであり、ぼくの手はぼくのものである。
要するにぼくが保持しているものであってぼくそのものではない。

ではぼくはこの身体の中にいていろいろなものを感じているのか?
しかしこの感覚もぼくではない。
それはぼくが感じたことであってぼく自身ではない。

ではぼくはその感覚刺激を受けているとされる脳か?
それもぼくではない。脳は意識ではない。 
脳をぼくだとしてしまうとそれこそ哲学的ゾンビ*1になってしまう。

身体も感覚も脳もぼくが所有しているものだ。
ではそれらを所有しているぼくはどこにいる?

ここはどこなんだ?

時間を忘れたい

時間はずっとぼくから離れずについてきている。ぼくが進んだ分だけ時間も進む。時間がぼくを置いていくことはない。時間の一単位をどれだけ細かく区切ってもぼくが存在しない瞬間はない。ぼくが存在しないとき、時間も存在しない。時間とぼくは常に一対一だ。

しかしそれは錯覚ではないだろうか。時間とぼくを区別する必要はないのだ。そもそも時間などというものもなかった。時計が指し示す時刻は、座標空間上の一点を指し示す数値であるにすぎない。

「時間」という語も他の言葉と同様、あるがままの自然から「時間」と「時間でないもの」を区別するために人間がつくったものなのだから、区別する必要がなくなったらもう不要だ。普段わざわざ住所に日本国などと書かないのと同じように不要だ。

大体こんなに離れがたくくっついているものがぼくでないことがあるか?
仮にぼくが時間を欠損したとして、そのときぼくがどうやって存在しているのか想像もつかない。

これから待ち受けている時間も追い立てられる時間もどこにもない。死ぬまでの時間の長さに重圧を感じるぼくや残された時間の少なさに追い詰められるぼくがいるだけだ。「時間は嘘である」と無意識のレベルで承認できればそれだけで解放されうる苦しみなのだ。 

 
これらの悲鳴は時間を忘れたい一心で書いています。

およそどんなことだって死ぬまで信じ込むことができればなんでもよいのだと思います。狂気を根拠に何かを信じることができればそれが一番素敵なことです。

カイエ

ا

 自分とそれ以外(以下、世界と表記する)は関心の糸だけで結ばれている。すべてに無関心になると生きている実感はもはや沸かない。ひたすら無為な時間を過ごす以外に為すすべはなく、底なしの虚無感のほか何ものも見いだすことができない。

 関心の強度で生の充実度は測れる。関心が強くなればなるほどそれに向かう行動が起こしやすくなる。常に関心の度合いに応じて行動は選択されているように思う。そしてその結果の感じ方にも影響があると思う。関心が強ければもっと好ましい結果を得るための方法を探るだろうし、関心が弱ければ辞めてしまうかもしれない。関心は主観性の強弱に相関があるように感じる。関心が強ければ強いほどその対象に没入する度合いも強くなりそれ以外のものは彼の意識から遠ざかっていくことだろう。逆に関心が弱ければその度合いに応じて他のものを見ようとするはずだ。関心が弱いときに目に飛び込んでくる客観性のノイズはさらに関心を弱める方向に作用する。というのも主観でないものはすべて客観性の色に染められてしまっているからだ。

 客観性とはなにか。ことばでの理解だ。これはあんな感じらしいよ、という話を鵜呑みにすることだ。「あんな感じ」と自分では思ったことがないにもかかわらずそれを信じ込んで固定化してしまうことで客観性の毒は回り始める。「あんな感じ」と感じられないことがまるで不正解かのように思われ始める。

 客観性をできる限り排除することで主観性は守られ関心は強固になる。世界と自我との結びつきも強固になる。客観性が著しく弱まり主観性が甚だしくなってくると、それは主人公性といったほうがしっくりくる。それほど世界との一体感が生まれる。

 

շ

 比較とは特殊性の極致である自己を貶める行為だ。

 

 世界とは自分が見る景色であり五感やそれ以外で感じる刺激から浮かび上がる印象のことである。それゆえ世界はひとりにひとつずつ配達された差出人不明の手紙なのである。

 

Գ

 どこか遠い星で醜悪な化け物の種族があたしは美しいだの醜いだのと勝ちほこったりしょげかえったりしている姿を想像する。その姿はやたら滑稽に思えるのだが、しかしそれは、ことによったらこの地球のことなのではないか? いやたしかにそうなのである。われわれはたまたまここに生まれ育ったという無意識の特殊性のせいでその感性が麻痺してしまっていたのである。


ܟ

 そうするしかできない人間に、あれが正しいだのそれは間違いだの言うことにどれほどの意味があるだろうか。

 

 誤りとは客観性からにじみでるありもしない正解までの距離感覚なのだから主観性を最高度に高めることで無謬性も高まっていき、それが自身の主人公性へとつながるのだ。

 

դ

 死んでもいいから遊び続けろと全身で表現しているのらねこはそうある限り自分自身の主人なのである。